死を受け入れるという覚悟はどうしたらできるのだろうか、
先日、知覧特攻平和会館に行く機会に恵まれた。(浄土宗青年会の研修)
中学の修学旅行以来、実に24年振りである。当時、まだ幼かった私は志願兵の遺書が読めなかった。それが24年間さまざまな勉強により崩し字や旧字体が読めるようになったのは、
英霊のお導きだと感じざるを得ない。
特攻兵はその歳とは思えないほどの名文で、しかも達筆で親に最後の手紙を書くのである。
これを読む親の気持ちは想像を絶する。
母親も夜毎枕を濡らしながら、空に旅立つ子息に「必ず、南無阿弥陀仏と唱えるんですよ。極楽でまた会えますからね。」とハガキを送り、我が子を励ます姿を想像すると震えが止まらない。
我が先祖は二十歳にも満たない若さでこの世の無常を悟り、家族を悲しませまいと笑顔を残して散って行ったのである。
会いたくない縁に会ってしまうのがこの世の辛さ。
何を支えとし、何を頼りとし、何を希望として生きるのか。
覚悟は年齢に関係ない。
心が転倒せず、錯乱せず、失念せず、安らかに迎えるように護られたいと願わずにいられない。