南無阿弥陀仏だけ唱えていればいいっていうのは
前提を無視した言い方だ
南無阿弥陀仏だけ唱えてさえいれば
阿弥陀様が罪や業を消してくださるのだから
何をやっても大丈夫
悪いことは何でもやっちゃおう
というのは全くの屁理屈で
とんでもない偏見だ
800年前、念仏が日本で初めて一般の方に広がった時
そういう誤解があった
何をやってもいいのなら
罪を犯していいのなら
南無阿弥陀仏あってもなくても
同じである
キリスト教の信仰も同じで
私が悪を犯すのは神様が決めているのだから
私のせいではない、
というのなら
唯一絶対神はいてもいなくても
同じである
こういう前提を無視して
あるいは解釈を湾曲した
勝手気ままな考えが
極端に走って
気が付けば
取り返しのつかないことになり
宗教を信じている人は
やっぱりおかしい
といわれる始末になる
オウムが代表的だったが
第二次オウムもその予備軍も
いつの時代もあるのではないか
だって人間だもの
ちゃんと理性的に考えて
この世界には
どんなに努力をしても
根性論では
精神論では
どうにもならない理不尽さがあり
心を鎮めろ
心を落ち着かせろ
心を安定しろ
と言われても
目、耳、鼻、口、皮膚、心から
否応なしに入ってくる情報には
太刀打ちできないことがある
努力を尽くして
それでもまだ結果が出ずに
葛藤し、絶望して
やっと見えてくる世界がある
その努力が前提であったからこそ
絶望の中に
自分は救われるんだという
確信に至る
楽して結果を得ようとする根性は
最後の最後まで消えない
それがお釈迦様がおっしゃった
最大の煩悩であり、
これを無くすのは
親友と絶好するのと同じだと
中には親友と断ち切って
目的を果たす人もいるかもしれない
それはしかし、
人間的だろうか
あまりにも無情ではないか
どうしても捨てきれないものが
人間らしさではないのか
業に引っ張られて
涙を流す人間ではないのか
努力をした結果
人の和や協調
そこで生まれる
人情がわかるのではないか
だから神や仏は
いいんだよ
と言ってくださるのではないのか
だから
だって人間だもの
といって受け入れるのではないのか