仏教の話

なぜ家康は念仏を唱えていたか?を「厭離穢土、欣求浄土」から考える


 

昨日の大河ドラマ

画面に南無阿弥陀仏が映る時間が長く

私としては有難い気持ちになりました

 

なぜ家康は念仏を唱えていたか?

それを、

家康が戦の時に掲げていた「厭離穢土 欣求浄土」から

紐解いてみましょう

 

ではまず、

穢土(この世)を厭い離れるということは

自ら命を絶つことではなく

この世の価値観では本当の幸せは叶い難いので、

いったんその価値観から離れて考えましょう

ということです

 

仏教では「この世の価値観」をどのように考えているかといったら

勝つか負けるか

損か得か

好きか嫌いか、で

当たり前ですが、すべて自分を中心とした判断です

 

それはある一定の条件で成り立っていることで

ちょっとしたことですべてを失うような儚いもの

いわば、無常ということ

 

その蜃気楼のような、水の泡のようなものを

私たちは常に囚われて追い求めているとお釈迦様はいいます

またお釈迦様は

本当の真理にめざめていない人を、

“夢を見ている人”と例えています

夢の中というのは全部自分の心が作ったものです

自分が作った思い込み(価値観)によって苦悩しているのが私たちだと

お釈迦様はいいます

 

 

常に覚悟をしなければならない時代

自分が自害して責任を負いさえすれば皆が助かるのであれば楽です

ですが、

家臣や民が殺されないような道というのは想像できない毒の道で

それを決めるという重圧がのしかかるのが主君です

 

人殺しを生業として、それが手柄であったとしても

給料が高かったとしても

決して心地よいものではありません

それは本当の豊かさと言えるのか

 

法律で許されても、お咎めがなかったとしても

常に、罪自体に罪悪感に苦しんでいたでしょう

安眠なんてできない

 

現代では人の命は地球よりも重たいなんていいますが、

当時、人の命は一粒の朝露ぐらい程の価値観

強烈な無常感に襲われ

たとえ、長い戦乱が終わったとしても

根本のところは変わりません

 

「厭離穢土」

この世の価値観では救われないと考えた家康

 

ではどうすればいいのか

それが「欣求浄土」

(極楽)浄土を願い求めること

この世を超えた価値観で救いを求めた

 

仏教の「救い」とは

人がどうしてもやってしまう愚かな行い(業)から解放されること

どうしてもやめらない習慣

どうしても止まらない怒り

どうしても許せない心

ずっとそれを繰り返しているから、

どうしてもやめられない

その“どうしても”のサイクルを断つことが救い

 

「戦はこの世で最も愚かで醜い人の所業だ」

 

それがわかっているけどどうしても断つことができない

自分の力では及べる範囲ではない

自分は罪深い愚かな凡夫と気づいた時

仏の力にすがるという道が見えてくる

 

それが南無阿弥陀仏

松平家の菩提寺はお念仏を唱える浄土宗

家康は浄土宗のお寺と深い縁があり

かつて家康が自害しようとしてそれを留めた方が浄土宗の住職さん(證誉上人)

その方から、お念仏の教えを聞いたに違いありません

 

「南無阿弥陀仏には80億劫の間の罪が一瞬で消える」とあり

(「劫」とは宇宙が誕生して消滅する時間の単位)

やむにやめらないむごたらしい戦で

敵味方関係なく命尽きたものが極楽へ往生できるように

一刻も早く終わることを願って家康は念仏を唱えるまでに足らず

筆で南無阿弥陀仏と写経にまで至ったんだと思います

 

去年の大河ドラマ(鎌倉殿の13人)も戦乱の世

 

『吾妻鏡』に北条義時の最後は

お念仏に囲まれて旅立ったと書かれている

 

この世の限界を見た人は念仏に至る



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