継続したからこそ現れてくるあの頑張らない脱力した境地(四修の中の無間修)
シリーズとして四修という専門用語を解説しております
四修とは念仏者の心得です
行いによって心が後からついてくるとして
信仰心という不安定な心よりも行を重んじる理由を述べています
法然上人が一枚起請文で「三心と四修は南無阿弥陀仏と唱え続けていた自ずと出てくる」と述べており、三心(往生したい=信仰心)という心はコロコロと移りやすいので、とにかく唱えるということに意識を向けた方が、心も器というに収まって安定してくるということです
人間というのは怠心に支配される弱いものですが、それでも美しいものを求め、希望を捨てずに進んでいくべきであり、その心得としてこの四修(型を学ぶ)を大事にしなさい、
この考え方があらゆる業界、プロの世界でもそうなっているようです。
今回は四修の中の三つ目「無間修」です
念仏をやめない、やめるという間(ま)を作らないという意味です
「一度止めたら、次がキツいぞ」
連休明けの月曜日は、鉛のように体が重くなります。
「一度止めてしまうと、また動かすのに大きなエネルギーがいる。だから止めない方が楽なのだ」と考えます
自転車は、漕ぎ始めが一番力が必要ですが、スピードに乗ってくるとだんだんと軽い力で回り続けます。
つまり、
無間修とは、自分を「慣性」に乗せることです。毎日決まった時間に型を行うことで、意志の力使わずに、無理なく、自動的に体が動くような、半ば全自動モードに入るようなことが、継続のコツです。
飛行機が滑走路で猛スピードを出し、ある瞬間からフアっと飛び出す瞬間があります
フッと軽くなる瞬間です。あの揚力という力によって飛ぶわけです。あの揚力という重力に逆らう力によって、浮かび上がる
お念仏をし続けると湧き起こる時も自力ではなくフワッと他力に移り変わる瞬間があるわけです自分の力ではなく、大いなる働き、如来様の働きによって、支えられるような感じです。それを古来の人は仏様から生かされる、という表現になった。
頑張るというより、流れに乗る、少し脱力したような安定感といいましょうか
だけれども、一旦やめると、立ち止まってしまうと、1からやり直し、もとに戻るのには少しエネルギー頑張り度が必要になってくる
また、別のたとえを出しますと
独楽は、勢いよく回っているときはピタッと止まっているかのように静かに見えます。しかし、回転が落ちてくると、グラグラと揺れ始め、最後は倒れてしまいます。
動いているときほど、実は安定(安心)しているという逆説です。
無間修は、「止まっているような静かな集中」を保つために、裏側で常に回転し続けること。回し続けていれば、迷いという風に吹かれても倒れることはありません。
何か嫌味を言われても、何か邪魔が入ってもです
周囲からは「なんて努力家なんだ」と思われますが、本人は「もう勝手に動いちゃうから、努力なんてしてないよ」と感じています。
マザー・テレサは「私は神の持つ小さな鉛筆」といっておったそうです
ノーベル平和賞を受賞したお方ですが、自分自身をそのような器と思ってなかったようです
マザーテレサは自分のことを「神様が使っている、ちびな鉛筆」に例えのは
「私が書いているのではない。私はただ、神様の手の中で動かされているだけ」という感覚です。
安心の境地: 「自分が世界を救わなきゃ」という意思だと、あまりの困難に絶望してしまいます。しかし「私はただの道具」として肩の力を上手く抜いて続けることに徹したからこそ、彼女は一生、微笑みを絶やさずに活動を続けられました。
「自分一人の力(自力)で頑張るのをやめたとき、もっと大きな力(慣性・運命・仏様)が助けてくれることに気づいた」という点です
「南無阿弥陀仏」と称え続ける慣性に乗れば、あとは弱運転でいい。いや、弱運転であればあるほど、仏様の力が100%伝わってくる。
続けるということによって、心が新たについてくるということです
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