もし、自分が感情に振り回された時、
こう考えてください。
「ああ、いま自分は怒ってるんだなあ~」
「いま自分はイライラしているだなあ~」
という風に
「いま自分は○○しているだなあ」と考えてください
それが自分を客観視することになります。
自分をいかに俯瞰できるか、
それが感情をコントロールするポイントです。
感情をむき出し、そのままにするとどうなるか
↓
小さなウソをついて、それを隠そうとしてウソをつき、
またそれをウソをついて大問題になっている事件が、
いつの時代になってもなくなることはありません。
仏教ではこういう負の連鎖のことを惑業苦といいます
「惑(わく)」とは煩悩のことで、
イライラ、怒り、焦り、不満といった負の心の状態です。
「業」とはその負の状態で起こす行動のことです。
こういう状態では間違った行いですので、たいて失敗します。
「苦」とはその行いによって生み出された苦しみです。
原因を探っていくと
「惑」である煩悩ということになります。
それも大きくいって2つ
一つは「執着」
つまり、こだわること、
私はポン酢が大好き、しかもそのポン酢は「馬路村」のポン酢でなければとても残念な気持ちになり、あらゆることがブルーな気持ちになる。妻は何を考えているんだろうかとか、せっかくの料理が台無しじゃないか、おいしいお酒にも失礼だ。あーなぜミツカンなのだ。というふうに一つの執着が妻のせいにしたり、ミツカンさんにまで被害を及ぼす
とても小さくてどうでもいいようなことですが、こういったことが溜まっていくと収集付かない怒りが何らかのきっかけで爆発します
執着は、名誉欲にも発展します
名刺に書く肩書の名誉だけではなく、
たとえば家庭の中
母は母としての扱い、
祖父母は祖父母としての扱い
「孫の誕生日をすることになったけれど、私は聞いていないぞ」
行く行かないは別にしろ一言声をかけないのはけしからん、と自分を立ててくれなかったらそれだけで腹を立てることが大いにあります。
ほんの少しかもしれませんが、
一瞬一瞬何年も経つともう修復できない関係が出来上がってしまいます。
若い人に代を譲るということになっても
自分の居場所、お金は今まで通り欲しいという気持ちが湧く
手放したくないというのはこの執着心なのです。
「惑」の二つ目「無明」
これは諸行無常がわからないこと、
自分中心、都合がいい考え、自分の物差しで物事をみることということ、
誤解、思い込みもそうです。
お釈迦様はこの「無明」が人間の根本煩悩で、
この煩悩を捨てることは自分の親友を捨てることに等しいくらいとおっしゃった。
煩悩はけっしてなくなりません、
だけど、コントロールはある程度できます
冒頭にあった自分を客観視するということを
やってみてください
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