道徳だけ知っていればよいものか
宗教心はなぜ必要なものなのか考えてみる
ある環境の中で人と人を比較し、人格を高めようとするのが道徳
人間の不完全を根源的に見るのが宗教であるではないか
例えば、
先日の5歳児虐待の場合、
この事件では私たちはどのように学び、どのようなことに気づかないといけないのかを知る必要がある
よく、テレビのインタビューで罪の意識がないとか、
命の大切さを知らないのではないかというコメントがある
(命の大切さというのはどうやっても説明できない、大切であるという理由以外ない、それがすべてなのだから)
メディアはいたいけな5歳のつづる手紙と、それまでの経緯を公表しこの両親を極悪非道の輩に仕立て上げる
しかし、
人は他人のことはよくわかる、
人間の目は外についていて内についていない
自分もそうなる可能性を持っている不完全な生き物だという視点が大事である
なぜ人はそのような行いをしてしまうのか、
明らかに悪いと分かっていながら、
犯してしまうということをどう説明するのか
悪いことはやめましょうといって悪いことをしてしまうのはどうしてなのか
人間という枠を越えて俯瞰した見方、
人が悪に転じていくメカニズムにフォーカスして見ると、
自分と他人という枠はなく、すべての生き物は一つであるという見え方ができると、
他人は自分と何ら違いはない存在だ
だから、どんな相手でも敬う対象である心が生まれる
それが宗教の見方ではないか
たとえ
自分の行いは正しいつもりでも近しい人が正しい行いをしない限り、
自分は本当の意味で人格者とは言えないのではないのか
自分だけの幸福ではなく、人の幸せを願い、
それに向かって正しい行いをひたすら練習していく
これが修行ではないかと思う、
それをキツいとか苦痛と考えず
むしろ、それが喜びであると思うようになれば本物だ
親しい人が至らないところがあったとしても、
いつか正しい道に進んでいくことを願うのが本当の生き方ではないのか、
道徳を否定しているわけではない、
時代や場所によってコロコロ変わる、
空気も読まないといけない
しかし、
会社や社会から外れたら、
タガが外れたように善悪の基準は薄まり、
怖いものがなくなり、厚かましくなり
自我がむき出しになり、
自分さえよければいいという考えになる
そして、
人間はどこまでも悪を行うようになり
その意識もなくなるようになる
人は何をたよりとして行くのか
それがその人の生き方、本質となる
だから、宗教は必要なのではないか
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