仏教が問題にしているもの
それは
人はあらゆるものを錯覚、倒錯、ありのままに見えていないから
不安定な喜びを幸せと感じ、
しかもそのことに気づいていないということなのですが、
これでは何のことかさっぱりわかりません、
ですから、たくさん言葉を用意する必要があります
例えば(仏教はいつも例え話です)
とんちで有名な一休さんが問題を出しました
庭に曲がりくねった松の木が一本ある
この松の木をまっすぐに見れ方は賞金をあげますよ
と言いました
さて、どうすればまっすぐに見えるのでしょうか
ここで私たちはどうしても、
どこかでまっすぐに見れる角度があるに違いない
と思い込んでしまい、
あの手この手でまっすぐに見れるところを探してしまいます
では正解は
「曲がっているね~~~」と
素直に見るのが正しい見方です
そっちの方がひねくれているように思うかもしれませんが、
“まっすぐ”とは何の概念もなく、
囚われもなく、余計なことを考えず
素直にありのままに見ることであります
ではもう一つ、
以前もこの話をしたことがありますが、
ある子どもが銭湯の番台にいるおばちゃんに
「いくつになったら、女風呂に入れなくなるの?」
と聞きました。
そしたら、おばちゃんはこう答えました
「女風呂に入りたいと思った時」
・・・・・・
ありのままに見るということで裸を見たら
肉の塊を見るということなのですが、
見たいと言ったこの場合
“何を”見たいのでしょうか
つまり男性は女性の裸を
ただの肉として見るのではなく
ムフフ♡という気持ちを持って見るのです
見られる方も
恥ずかしいという気持ちがなければ
なんてことありません
同じ露出でも
下着姿を恥ずかしがっても
ビキニ姿は恥ずかしがらないのは
なぜでしょうか
ここにありのままに見えていないところがあります
ではこのありのままに見るということで
ダイヤモンドを見たらきっと見方が変わってきます
それは他人との比較による優越感だったり、
自己満足だったり、
思い出だったりするわけです
(思い出はダイヤモンドではなく、心の中に存在するものです)
ダイヤモンド・・・
もうちょっと欲しい・・・・ではなく
ダイヤモンド・・・・
綺麗だね・・・・で
必要以上に欲しがらないということです
輝くものだったら夜空の星と変わらないわけです。
以上のことにより
人は
何かに囚われてしまい
錯覚、倒錯してしまい
私たちはありのままに見ることが出来ず
欲しい欲しいと満たされることのない心に
気づかずにいると
その囚われを払うことで
少し心が楽になりますよ、と
お釈迦様はおっしゃいました
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