「見えない人」はどのように“見ているのか”
人は縁(環境)によって心が揺れ動き
自分の意思とは関係のない行動を取ることがある
これが仏教の見方
その環境に左右されない「見えない方々」は
実に心が豊かであると言える
健常者というのは
障害者が不幸であるという見方があるが、
それは思い込みであり、
障害者は不幸と思っていない
その理由を落水洋介さんと出会って確認したが、
今回、ある本を読み、
目が不自由な方は心が豊かであるということを知った
障害者=不幸を
また払拭させてくれる新たな視点だったのでアウトプットしたい
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見えない人たちは
抽象的に、立体的に道を感じながら
歩いていると言われている
たとえば、私達でいうと
スマホの地図アプリを見て(二次元的に)
自分の位置を確認しながら歩いているが
見えない方々は外の音と地の感触という情報で
地図のような二次元で捉えず
三次元の空から見た自分を俯瞰して見ているそうだ
こういうものの捉え方というのは
自分を中心に置いていない
自分を俯瞰して見るということは
自分を客観的に見ることで
それはとても心にゆとりがあるということになる
全盲の方の話を聞くと
視力を失って2~3年は
目からの情報が入ってこないため
その“飢餓”状態に苦しむそうだ
それを乗り越えると
一種の“悟り”のような境地になるらしい
たとえば、
こんなことはないだろうか
パソコンを開いたら、
いつのまにかネットショップしていたり
本来調べ物をするためにスイッチを入れたのに
別のことをしていることはないだろうか
コンビニに行って、
おにぎりを買うだけなのに
つい余計な物を買ってしまったり
目に映るものに心を踊らされている
(そうでなければ資本主義は成り立たないかも)
見えない人は
コンビニに行っても
買うものが決まっているため
余計な物を買うことはない、
(レジに行って欲しいものを伝える)
そのため、
家の中の物は少なく常に片付いているそうだ
そうでないと
あるべき物があるべきところになければ
ひたすら手探りで探すことになる
自分は情報を使っているのだろうか
情報が自分を使っていないだろうか
自分の意思でちゃんと行動しているだろうか
ほとんどの方は
周りの環境に影響されながら行動している
“寄りかかって休む”のも
わざわざ壁を探して寄りかかるのではなく
そこに壁があるから寄りかかってしまう
子どもとなるとその確率が高くなり
「いたずら」とはそうしたものである
人は縁(環境)に心が揺れ動き
行動を取るという仏教の見方をしたら
その環境に左右されない「見えない方々」は
実に心が豊かであると言える
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