医者から手の施しようがないと言われたら
それから先はどうしたらいいのか
4月にNHKのクロ現で放送されて一躍有名となった
多くの看取りを経験されてきた玉置妙憂さんの講演を拝聴した
率直な意見を言うと
「もっと、もっと聞きたい」だった(約3時間半)
まず、死とは何か
玉置さんはこう言った
>しかるべきときに
しかるべき方法で万人に訪れる
自分自身の独自性を持った
最後の経験
つまり、
“しかるべき”なので
個人差があるけど
起こるべくして起こった現象であるからこそ
しっかりと受け止める必要があるということ
「無常」という言葉を言い換えると
そういう表現になるだろう
私達は起こるべくして起こっている縁によって
起こる現象世界に生きているということ
これを踏まえなければ以下のようになる
自分の愛するお母さん(90を越えている)は
末期になって手の施しようがないと言われても
医療で治るはずであり
治らないのは医者が間違っているからだとクレームを言うのは、駄々をこねる子供のようになるかもしれない
死の3か月前に起こる兆しは
すべて自然現象であって
それはそうなるべくしてなったものである、
たとえば、
・新聞、ニュースに興味を持たなくなる
・眠っている時間が多くなる
・食事の量が減る
普通は体を養成するために必要な栄養素として食事をしているため
見届ける方は無理やりに食べさせたくなる
しかし、“体という服”を脱ぎたくなるのが死であり、
体が食を欲さなくなるのはあくまでも自然現象である
という見方が必要であるにもかかわらず
本人の意思とは関係なく医療行為を行うのが現代
“人生の到着地点”にたどり着こうとしている方にとっては
飢えや喉の渇きというのは普通の人より苦しくないらしく
逆に点滴や胃ろうをすることの方が苦しいと言われる
それを見届ける家族は
最後の最期まで何かしてあげたい
という強迫観念、世間体、義務感、選択肢の多様
逆に何もしないとしてもその心理的負担に押しつぶされそうになる
今、静かに死を待つことができない理由はこういうところにあり
医療費が削減できない原因ともなっている
本人は何を望んでいるのか
本人の意思を尊重するという共通認識
点滴すら必要でなくなった地点で死を待つ人は
・人生は何だったのか
・生きている意味はあったのか
・こんなになってまで生きていても意味がない
など
人によって千差万別の数えきれない程の、
答えようがない疑問が沸き起こる
このどうしようもない心の奥底に潜む“痛み”(スピリチュアルペイン)に
どのように答えていくのか対応していくのか
医療では解決できないことに
耳を傾けていく、声を聞こうとしていく
そういう行為、対応が死にゆく人にとっての最期の喜びである
もう一度言うが
無駄な医療は苦痛をともないながら死んでいくのである
技術でなく、本人の“魂の声”にどのような対応を模索する
それが今後ますます求められている
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