仏教の話

自分を受け入れてくれる、受容というものがなければ人生というのはものすごく過酷なのではないだろうか


 

自分を受け入れてくれる、受容というものがなければ

人生というのはものすごく過酷なのではないだろうか

 

生きるということは

何かを手に入れながら

何かを失っていくことだろう

 

しかし、

手に入れることによる喜びよりも

失った時の悲しみで相殺されるばかりか

悲しみによって上書きされるような気がする

 

だから

そのロスを社会全体でサポートする世の中になればと思う

 

サポートすると言っても

魔法使いのように言葉やスキルを使って

その対象者を回復する、解決することではなく

ただ、その悲しみをしっかり見るということ

聴くということはいかに見ることだと言われる

 

事故で失ったこの体をしっかり見て欲しい

どうしたのですか?と感心を持って欲しい

言葉にならないけど、この言葉を聴いて欲しい

黙ってただただ聴いて欲しい

意見はいろいろあるだろうけど黙って聴いて欲しい

殺したいほど人を憎んでいる理由を聴いて欲しい

 

聴いてもらえるということは

回復や解決ではないけれど、少し楽になる

怒りの炎が少し弱火になる

 

必要なのは

そういう場とそういう時間

そして、寛容な心、受容

今の時代、そしてこれから時代はゆっくり時間を使うということが難しい

この寛容がますます難しくなるだろう

 

人は貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろか)という三つの煩悩を持っている

貪(むさぼり)とは今でいうと「諦めることができない心」

何かに囚われてしまって、まだいける、あともう少しだけやらせてと辞めることができない

潔く決めることができない

 

瞋(怒り)とは今でいうと「許すことができない心」

固執しすぎるためにわかっていても許せない

許すと自分を否定したことになる、負けたことになる

 

痴(愚かさ)とは今でいうと「認めることができない心」

一つのことに執着して全体の仕組みが見えないために

自分が原因だと認めないこと

間違った認識をしてしまう

 

この三つの煩悩をもっているがために

どうしても人は寛容さを失ってしまいがちだ

寛容を生むのは寛容の伝染である

 

ここで仏教は

こんな自分にでさえ阿弥陀仏は受け入れる

という阿弥陀仏の広大な寛容さ(慈悲)を説くのである

 

どこかで心の荷物を置ける場所、人がいなければ

自分を受け入れてくれる、受容というものがなければ

人生というのはものすごく過酷なのではないだろうか



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