仏教の結論は南無阿弥陀仏に収まる
何をしていけばいいかと考えていくと
最後の最後は南無阿弥陀仏になるんじゃないかと
だから、宗派を超えて考えても念仏になる
仏教の教えを一言でいうと
自業自得の教え
つまり、
地道な努力をして行くことが幸せの道だということなのだが、
それをなかな認めようとしない煩悩を持っている私たちという現実がある
もちろん、ちゃんと努力した人はいる
だが、実際問題人にはどうにもならない限界があるということだ
努力して努力して知れば知るほど、
自分の愚かさに気づいてこの世を超越した存在からどうにかしてほしいという願いがわき起こる他力へ向かっていく
それが念仏
歴史的に見ても、
南無阿弥陀仏が広がったのは
仏教をシンプルにして、
そのエッセンスを論理的に証明し
出家者から一文字も知らない人へターゲットに移り
時間がない一般人のよりどころとなって
念仏を唱えるようになったから
同時に宗教におけるパラダイムシフトといえる
大きく見て、仏教の改革は
法然上人以降、変わっていない
(上人とは敬称)
新しい仏教系の宗教が出ても
先祖返りがほとんどで
ちょっとやそっと修行をしても、
宗教が問題とするところは800年前から一歩も進んでいない
楽はすぐに苦に変わる
苦はすぐに楽に変わる
有無同然であり、
自分の都合が大きければ大きいほど悩む
もっと言うと2600年お釈迦様がおっしゃったことから
何も変わっていない
技術は進化したが、
人間は進化したか
それどころか、
ご先祖様に顔向けできるようなことをしているのだろうか
以前、介護職に勤めている方から聞いた話だが
明治生まれのお年寄りは何をするにもありがとうと言ってくれた
大正生まれになると、少し愚痴がでるようになった
昭和生まれのお年寄りになると、物を投げつけるようになった、と
昭和中期以降生まれはどうなるのだろうか
若い時はいい
うまくいっている時はいい
恋愛で悩んでいる時期などはまだいい
体の動きが悪くなったと感じた時、
疲れが全然取れなくなり
毎年一年が経つ時間のスピードが上がっていき、
やりたいことはどんどん増え
責任は増え
けど、体はついていかないし、
時間がいくらあっても足りない
あっという間に年を取り
いよいよ体が動かなくなり
笑ってごまかすようになるのはいいが
本質のところは何も変わっておらず
怖いものがなくなり
愚痴ばかりこぼし
ご飯もこぼし
我慢ができなくなり
我が丸出しになり
欲はますます大きくなり
思い込みもますます大きくなり
全部悪いことは他人のせいにし
いろんなことがめんどくさくなり、
めんどくさいから動かなくなり
じっとすることが多くなり、
どうでもよくなり
しまいには、自分の事もわからなくなる
そうなっても念仏だけは忘れてはならない
どんなに認知症になっても忘れてはならない
念仏だけはどんなに年を取っても
どんなに体が動かなくなってもできることだ
最後の最後までできること
それが念仏だ
しかも、それが仏教のすべての修行が収まっているというのだからすごい
(赤ちゃんは母乳しか飲めない、
母親は赤ちゃんのためにいろんな栄養を取って母乳に変えて与える
いろんな栄養素→いろんな修行の功徳
母乳→念仏
母親→阿弥陀仏
赤ちゃん→人間
仏からみたら人間はみんな赤ちゃん
と考えてほしい)
死をどれだけ考えるかで
年を取ることも考えることになり、
病気もいろんな苦悩も考えることにつながる
死の問題は
どんなに年を取っても、
若くても同じである
年を取っても自分はまだまだ大丈夫と思う人もいるし、
逆に、若くて病気がちの人ほどこの問題に早く気づく
すべて、死の前ではかすり傷
念仏を考えるということは死を考えること
世は無常であるということ
何が大事かを模索するということ
目の前の課題に集中するということ
集中するということにより
いろんな気づきがある
それの気づきも結局、
この世は無常だということ
だから、念仏ということになる
最初に戻ると
仏教の結論は念仏になるということ
最後の最後は念仏である
南無阿弥陀仏
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