日記

死の恐怖をどのように受け止め、前向きに生きていくか?


 

死の恐怖をどのように受け止めて

前向きに生きていくか

 

とてもシリアスで難しい課題ですね

誰に聞いても答えてくれないと思います

なぜなら、そんなことを考えないからです

 

今のところ、私はこう考えています

 

まず、

死は誰でも平等に100%訪れる絶対的なものです

どうあがこうが、

どうしようもありません、

どうすることもできません

理不尽で不条理かと思います

 

なぜ怖いのかと考えると

「死が怖い」というは正確には

「私が」死ぬということが怖いのであって

もっといえば

「私が」という自己、自我意識が

なくなることが恐怖だと思います

 

これは他にたとえるならば

「私が(は)苦しい」の“苦しい”を

なくすことはできません

 

苦しい、悲しいは

人それぞれ、程度や受け取り方が異なります

なぜなら、

それ自体が苦しい悲しいではなく

「私」と結びつけるからであって

「私」が引き起こす一種の“幻想”である

ではないかと思うのです

 

つまり

考え方の練習によって少し変化していくと思います

この「私が」というものの意識をどれだけ抑えていくか

ということになると思います

 

もちろん

どんなに頑張っても「私」というのは“完全”にはなくなりません

これも死と同様どうすることもできない事実です

 

どうすればいいのか

 

一つに

上記の死の恐怖の原因を踏まえた上で

あまり深く考えないことです(笑)

死の問題はどうすることもできません

 

まぁ、そんなもんだよなあ

という気構えでいいと思います

 

二つに

意識を自分に向けるのではなく、

いろんな視野を広げていき、

世の中全体を俯瞰するような見方をし

自分という存在は

全体の繋がりの中で

無限に繋がる関係性の中で生きている

ということに気づいていく

ではないか、と思います

 

別の言い方をすると

他人の幸せを願い、

他人の不幸を悲しむことです

 

すると

自分という存在はあまりたいしたことのないものだと気づいてきます

自分は全体の中心ではなく、全体を動かしている歯車の窪みの一つであるということ

 

しかし、

それになれただけでも素晴らしい

と思うことが大事です

一つでも欠けると、

あなたがいないと世の中は動かないのですから

 

みんなで一つ

みんなのおかげで自分がいて

自分がいるからみんながいる

 

そうすると一心同体

他人は自分と同じ存在

他人と自分の境がなくなり

「私が」がなくなり、

他人を思いやる気持ちが出てくる

それは我慢ではなく、自ずとそうなってくる

 

そもそも

自分は全体から生まれたもの

命が終われば全体に帰っていく

 

今までいろんな命をいただいて

自分はなりたっていた

その逆で

そのおかげの恩返しとして

死んで全体に帰っていき

今度は自分が命を捧げる側となり、

これからの人々の命の一部となる

 

それが死というものならば

死がなければ生はない

 

生と死は一つ

 

生きている不思議

死んでいる不思議

 

そうやってこの世は成り立っている

 

と考えることが

死の恐怖を静かに受け止め

煩悩のまま自分のために生きることが

後々の不幸となり

他人のために生きることが

後々の幸福になるという希望をもつことが

 

前向きに生きるということかと思います



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