日記

ここがわかりにくい仏教用語、諸行無常と諸法無我②


 

たとえば

自分が正しいという思い、

これが強ければ強いほど争いになります

そういう時にこの無我の考え方が“効きます”

 

諸法無我というのも

原因と結果と深く見ていくとわかってくる考え方です

「無我」を仏教辞典で引くと

“すべてのものごと(事物)”は実体がない

とあり、仏教学では伝統的に“実体”という厄介な表現をしているために

お寺の跡取りが仏教系の大学に入って悩むのです

 

「実体って、いやいや

目に見えてあるじゃん」

とツッコミたくなりますが、

 

この「我」というのは

たとえば、体を動かすには意思が働きます、

その意思を動かすには何らかの意思が必要で、

その何らかの意思が人のコアであり、

常に変わらず存在するという考え方を否定します

 

例えば、

キリスト教は唯一神の意思がすべてを決めます

大自然も自分の行いもすべて神が行ったということになります

 

仏教では「すべて原因と縁によって結果が起こる(縁起)」と説きます

ここに何らかの意思が入るということはありません

宇宙の誕生も地球の誕生も食物連鎖も人類誕生も

すべて原因と縁によって起き(すごい偶然)

何か意思が働いて誕生したわけではありません

 

逆に言えば、

今日まで思った通りに自分の意思通りに今日まで生きてこれたと思っている人程、

後でイライラすることになります

 

仏教では「自分」という意識は

経験によって何かと結び付けて考えてしまう無駄な心の反応を起こすもので

本来はないと説きます

 

私達が持つ自分という意識は他人との比較によってだんだんと生まれるもので

幼い子が「わたしは」「ぼくは」と言わず、

自分の名前で言うのは自我が生まれていない証拠と言えます

(私が自分のことを「正之君はねぇ」と言うこと)

 

つまり、

苦しみの原因はこの「自分」という心の反応です

 

「なんだよ!渋滞じゃん!」イライラ

他人のSNSを見て「調子に乗ってんじゃねえぞ!」イライラ

そのイライラしている自分を見る意識を誕生させる練習が修行です

そうすると、いかに自分が無駄な心の反応が多かったことに気づきます

 

究極の瞑想状態に入ると

自分と他人の境界線がなくなり、自然と自分が一体になったような

相手の一部に自分の一部がまざり、全体から見た自分が見えてきて

だんだんと自分という意識がなくなり、

他人を区別するという考えがなくなるそうです

全ては自分の一部になり

全てを慈しむ、慈悲というものが芽生えて万物を愛すようになるそうです

 

そうなると

他人を自分を愛すかのように大切にするようになります

他人の幸せを願い、不幸を悲しむ人になるのです

 

「無我」は決して、

主体性がないとか、自分の考えを全く持っていないと言う意味の

「自分がない」ということではありません



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