玉置妙憂さんを聞いてからいまだ余韻に浸っている
医学では死とは
心肺停止、瞳孔反応がない、呼吸が止まる
ということになっているが、
明確な定義はないと言われるし
ここだという“一点”の話ではないと思う
玉置妙憂さんのおっしゃったことをまとめると
死とは
起こるべくして起こるプロセスという表現になるかもしれない
生と死の境界線があいまいになりつつある昨今
大切な方が“人生の到着地点”に立とうとしている時
何をどのように対応していけばよいのか、
そこに日ごろから何を考えて生きていくのかというヒントが隠されている
玉置さんが言うには
どんな方でも死の目前まではおだやかではない
しかし、
最後の最期はどんな方でもおだやかだという
こういう話があった
抗がん剤治療を懸命に頑張り、
心身ともに疲弊しただろうと思われる方がおられた
その方には二人の娘さんがいた
十分医療は尽くしたけど、
0.01%ぐらいの確率で効く抗がん剤の投与を知り医者に希望した
それを聞いた当時看護師だった玉置さんは
「誰のための治療と思っているのですか
もう十分にガンと闘ったのですよ、
まだ苦しむ思いをお母さんにさせるのですか?」
ということをその娘さん達に叱責して止めようと思っていた
しかし、
お母さんはそれを聞き、
その抗がん剤を受け入れることにした
その理由として
そのお母さんはこう話したそうだ
「これが、私が娘たちにしてあげる最後のプレゼントです・・・」と
そうなると
“効くか効かない”とかの問題ではない
誰の気持ちを大切にしてあげるか、
その「思い」をどれだけ理解してあげるか
医学では救えないものをどのように救っていくのか
ということになる
たとえば
患者が「眠れないんです・・・」というと
医学だったら「睡眠薬をあげましょう」となる
しかし、相手の気持ちを推し量るように
「どうしたんですか~」と聞いてあげることである
たとえば
死の1ヶ月前になると俗にいう「お迎え現象」がおこる
これは医学的にいうと酸欠状態になって見る幻覚なのだが、
「川の向こうにおばあちゃんが手を振っていた」
といっても
「何言っているのよ、縁起でもない」とか
「そんなものあるわけないでしょ」など
認知症の対応同様、
本人を否定しない声のかけ方が必要
また
死の目前になると目が閉じなくなり角膜が渇き涙が出てくる
それを「おばあちゃんが死ぬのが嫌だと言っているよ!!」と言っても
「それは自然現象ですから、大丈夫だよ」と言ってあげる
または
「ありがとうって泣いているかもね~」と優しく言ってあげる
死を迎える時の自然現象をある程度学ばなければ、
いろんな方が誤解して悲しむことになる
その悲嘆にどのように応えていくのか
答えのない課題に取り組む姿勢は
元気な時からすでに始まっていると思う
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