仏教の話

懺悔の心があるかないかで人として生きるかどうか分かれる


 

悪いと知らないで悪いことをする

悪いと知って悪いことをする

 

懺悔の心があるかないかで

人として生きるかどうか分かれる

 

前日のブログで紹介した阿闍世王の父殺しの後、

この阿闍世はその後、

強烈な後悔の念により、全身に皮膚病を患う

 

(阿闍世王)

「私は今、このように報いを受けている

地獄への果報が近い、決して遠くはない」

 

人は罪を犯した時に恐れるのは

一つは刑罰に対する恐怖、

それが怖いからバレなかったらいいだろうということで

「ひき逃げ」をする方が出てくる

 

阿闍世王は国王であるため、

父殺しをしても刑罰を受けなくていいわけです

そのため、刑罰に対する恐怖は存在しない

「ひき逃げ」してもお咎めなし

 

では何の恐怖なのかというと

犯してしまったことに対する恐怖、

つまり、罪そのものの恐怖

父はもう戻ってこないという事実

 

この深い後悔によって精神的に深く病んでしまった

 

そこへ、阿闍世王のもとへ数人の修行者が慰めに来られるが

それらは皆、自分が王から好かれるためのいわば、

営業に似たような内容だった

(あなたは王なんだから罪を犯していませんよという内容)

問題の本質からずれているため王は少しも納得しなかった

 

ところが

普段からお釈迦様の教えを聞いていた大臣が言った言葉には心を開いた

「王よ、その今の姿がまさに慚愧(ざんぎ)の心です」

 

慚とは人に対して羞じること

愧とは天に対して羞じること

 

「慚愧(ざんぎ)がなければ人ではありません。

慚愧がないものは畜生(動物)と一緒です。

慚愧があるからこそ両親や先生を敬うことができるのです

慚愧があるからこそ家族を大事にするんです」

 

「王よ、今こそ仏教を学ぶ心ができました

私と一緒にお釈迦様のところへ参りましょう」

といって寿命が尽きようとしていたお釈迦様のところへ生き、

教えを受け、深く仏教に帰依し

のちに在家信者の教団を作っていきます

(皮膚病も治っていきました)

 

お釈迦さまは阿闍世王に言った言葉

「我は阿闍世のために涅槃に入らず」と。

今まさに涅槃に入ろう(亡くなろう)としている時に

大罪を犯した者、これから大罪を犯す者のために

教えを説く、ということ

 

どれだけ、嬉しかったでしょうか

 

罪の苦悩が病となって現れたことに対して

どのような意味があったのかを理解し、同時に

自分がいかに救われない存在かを知った阿闍世王が

心から悔い改めることを誓って

しかも、お釈迦様から「大丈夫だ」と受け入れてくれた

 

救いとは

見捨てられたと知ったものが絶望した後

受け入れる場所、人を見つけた瞬間の歓喜だろう

 



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